あえて言おう、今の時代こそ国語だ!

「これからは英語が何よりも大切! 小さい頃から英語教室に通わせています」
 
入塾前面談でこの言葉を耳にした時、私は少し嫌な予感がする。
予感だけで終わればいいのだが、およそ7割はそうはいかない。
多くの方は英語に『触れている』だけで、英語が『使える』ようになっていない。
小文字がazまで書けないのはざらにある。
アルファベットの発音が出来ない子もいる。
 
さらに恐ろしいことがこのタイプにはある。
英語学習に時間を割いているので、国語の学習に手が回っていないケースが多いのだ。
 
英語重視の時代に逆行するようだが、私はあえて言いたい。
子供たちに今こそ国語をしっかりと学ばせるべきだと。
 
一つ断りを入れておくが、私は英語教育そのものを否定してるわけではない。
英語が話せることが大切なのではない。
何を話したいか、またどのように伝えるかを知っていることが大切だということを皆さんに申し上げたいのだ。
 
外国語の習得よりも自分の考えを母語で言語化する能力の習得が先ではないだろうか。
今後ますますグローバルな時代に突入していく。
しかし、日本語が衰退し代わりに英語中心の生活を送るようになることは考えにくい。
 
「これからの時代は英語です。出来る限り早い段階から英語学習に取り組ませましょうよ!」
英語学習神話は教育産業が生み出した鉄板セールスネタだ。
保護者に漠然とした問題を投げかけて不安な気持ちにさせる。
まるで英語さえ出来れば国語は後回しで大丈夫ですと言わんばかりのマシンガンセールストークで保護者を落としにかかってくる。
 
国語学習があっての、英語学習であれば問題はない。
しかし、今年度より段階的に実施される指導要領変更に合わせて英語偏重学習はより加速していくだろう。
 
では、学校教育の現場に今までの学習にさらなる英語学習をオンすることは可能なのだろうか。
 
答えは「ノー」と言わざるをえない。
学校教育の現場はすでにパンク状態だ。
友人である小学校教師に聞いた話によると、個性を重んじすぎるが故に個別に対応せねばならない案件が激増したと言う。
 
少子化でクラス数は減少している。
しかし、教室一人当たりの在籍生徒数に大きな変化はないと言う。
英語学習を推し進める負荷がかかった時に果たして学校の先生たちはその負荷に耐えることができるのだろうか。
 
「こんな計算もできないのか、それではダメだろう!」
疲弊しているのは何も教師だけではない。
『教育改革』という言葉を振りかざした大人から意思なき学習を強いられている子供たちも教師同様に疲弊している。
 
学校現場の最前線を見てみると、英語学習を推し進めることは私には無謀な気がしてならない。
英語重視の教育よりも前に、他にやらなければならないことがあるはずだ。
それを痛切に感じるのが、子供たちのコミュニケーション能力が著しく低下している様子を日常的に目の当たりにするからだ。
 
「昨日の晩ご飯は何を食べたの?」
「ごはんを食べました」
 
このやりとりウソでしょ? と思われるかもしれない。
しかし、これが現実なのだ。
日本語を使いこなす能力どころか、それ以前のコミュニケーション能力までもが低下している。
身の回りのことに関心が持てない子が世界にまつわる知識や関心など持てるはずもない。
 
『端的に言うと、言葉とは文化である』京都大学名誉教授の佐伯氏の言葉である。
我が国の文化について外国人に説明できる中学生は一体どれくらい存在するのだろう。
グローバル時代の到来により近年は観光地でなくても、身近に外国人を目にする機会が増えた。
20年前の日本では考えられなかった光景だ。
今年は日本でオリンピックも開催される。訪日外国人は今後ますます増加していく。
 
「Go down this street, and turn left at the second traffic light」
 
外国人との生活が急速に身近になってきている。
英語で道案内が出来るようになることも大切だろう。
そこで1点気にかけておく必要がある。
事実を説明するだけで満足していては、言葉を使いこなせているとは言えない。
自分の考えや感情を他者に伝えられる人にこれからの子供たちにはなってもらいたい。
 
知識を習得させることを目的にしてしまった昭和の教育。
その昭和の教育に安泰してしまった平成の教育。
では、令和の教育とは何をすべきか。
 
個性を伸ばすというのであれば、個性を発揮する術を子供たちに教えなければならないのだろう。
表現する力と伝達する力の双方を身につけていく必要があるのだ。
 
自分が表現したいことも頭の中に描くことができないのに、流暢な英語を話せることに一体どれほどの価値があるのだろうか。
言語を用いて、豊かな表現で明確に伝えた内容が大切なのだ。
内容がなければ他者との関係構築など不可能。
言葉は内容をアウトプットするための道具にすぎないのだ。
 
言葉はスマホと同じくツールでしかない。
ガラケーを購入して、一体どれくらいの人があの分厚い説明書の隅から隅まで目を通したのか。
一度も開くこともなくゴミ箱へ捨てた方もおられるのでしょう。
 
その点、スマホは思い切りが良かった。説明書がついていなかったのだ。
 
「使っていきながら私に慣れていきなさい」
スマホが私に語りかけていたように感じた。
トライ&チェックを繰り返しながら新しい機能を探っていく。
使い続けていく中で、自分の思い通りに操れるようになる。
言語学習も同じことが言える。
 
『英語が話せればいい仕事に就ける』などという根拠もない幻想を抱いていても仕方がない。
そのような考え方が英語偏重教育にますますの拍車をかけている。
それよりも、長い年月をかけて積み重ねてきた我が国の文化を、日本語で正しく伝えられるように子どもたちを鍛え上げるべきだ。
 
私は今日も目の前の生徒に国語の教科書をしっかり読み込ませる。
ちなみに、私の第一の専門指導教科は英語だ。
 
進学塾Daichi上牧 代表 堀居邦彦

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